2016年
2月
04日
木
8dで進めている栃木のモデルハウスの計画。
上棟しました。
薄肉H鋼と集成材を組み合わせたシステムを採用して、おおらかな構造体の大屋根を作っています。
そして、メーターモジュール。
全体的にゆったりとした計画には心地よいように思いました。
本日は現場の上棟確認と併行して建具図や展開図で内部の造作を施主サイドと設計打合せ。現場のスピードに設計が追いつかれてしまっています。
ギアを入れ替えて図面のまとめに取り掛かります!
2014年
5月
01日
木
3/3 サン・カルロ 思考する力について
玄関から入ったばかりの印象はタイトな小ささ。それは初めて来たときと変わらない。修道院の付属礼拝堂なのだ。光が乏しく唯一(楕円というより)長円のドームの凹曲面だけが薄明のうえに真白くぽっかり浮かんでいて、洞ないし腹膣の内部とも喩えたくなるヴォイドであるという印象もおなじく。
ただ、空間全体がある原理的なタイプを玄関~祭壇方向にストレッチした操作後のものであるという認識と、高さ方向の断面が明瞭に三層に分節されそれぞれがまったく異なる系として感受されるという印象の明瞭さだけは新たなものかもしれない。
2014年
5月
01日
木
2/3 サン・カルロ ふたたびローマへ
17C半ばに竣工したサン・カルロはとても小さいけれど一級の歴史的傑作とされている。
かつて30歳代半ばで初めて見たときには煩雑に感じられて幻滅したものだ。終えたばかりの仕事が和風旅館で直線と直角に整序された軽やかなモノのありかたに慣れきっていたからかもしれない。
2012年、ボロミーニでは未見のサン・ティ―ヴォと併せてふたたびここを訪れてみることにした。
土曜の10時から、しかもミサが始まる前の15分しか見ることのできないサン・ティ―ヴォは明日。
朝から十ちかいものを徒歩で廻ったのち、四月の穏やかな遅い午后に見覚えのある十字路にたどり着く。
Chiesa di San Carlo alle Quattro Fontane
alleは前置詞。交差点の四隅に四つの泉水がある。16Cの交通は馬を頼っていたからなのだろう。
2014年
4月
07日
月
1/3 ミケランジェロ
さきの【ヴィラ・ジュリア4/4】と【パヴィアのチェルト―ザ4/4】は1530年くらいからのマニエリスム期の中核的建築とそれを含む建築。建築を真正面から問題にしようとしても成熟した完璧な現行既成論理からのうまい出口を見いだせず自問自答しながらそれぞれなりに迂回して脱出する、言いかえれば「建築のための建築」。形を成すことの言外に本音を措かざるをえない「メタ建築」。たぶん多くが失敗しただろう。
1620年頃にはマニエリスムから次世代のバロックに移行していた。
(あくまで私見ではあるけれど)16Cに天才と崇められたミケランジェロの革命的コンセプトである動勢が、マニエリスムの「開発した反則技」を既成文法から解放する一群の自由な表現手法として包含した新しい造形スタイル。言葉の意味は「歪んだ真珠」。西欧各地に伝搬して新古典主義の体制のなか、スパンは19Cまで及ぶ。
バチカン美術館彫刻展示室のミケランジェロ作品
Musei Vaticani si trovano in viale Vaticano a Roma
2014年
3月
01日
土
4/4 建築、からの脱出、それに、古典主義なんてこわくない
ここで注意を喚起したい。さきに述べたトピックのことだ。
三番目の中庭。四阿(あずまや)の向こうに第二の庭。その両脇にあるL型のスリットのこと。
2014年
2月
23日
日
3)第三の中庭
第二の中庭とは(つい訝ってしまうのだけれど)動線が接続していない。連関は地の底から見上げる四阿(あずまや)の開口のみ。いったん第一の中庭に戻り気を取り直し外に出て壁に沿って裏路地風情を歩き、なんの構えもないゲートからなんの気負いもないまま横入りすることになる。
2014年
2月
23日
日
意気消沈したことがあって午后遅くから気分転換に書き始めた「なんだかなあ」の建築行脚。
思いつくままを書き連ねる紀行文のスタイルをとれば楽ちんだからシークエンシャルなチェルトーザ・ディ・パヴィアを採りあげた。その場その時に感じ思ったことを記憶を辿って文書にしていくと…あの建築が私にとって何者であったのかがまざまざと顕れてきて驚いた。
建築を字面に再現しようとして言葉に言葉を継いでいくとその間に欠けている言葉があることに気づく。ときとして重大な伏線。ときとして気づきと類推。ときとして意識もしなかった私自身の深層。見たつもりになってあるいは見ていない脳味噌が驚き続ける。
思い当たることがある。美大だから日常だったデッサンのことだ。描きだしてみると石膏像でさえ「如何にモノを見てないか」が骨身に沁みて判ってくる。そこを描ききれるかどうかでリアリティの強度が決まる。
それとおんなじことだったのだ。面白くなってずっと不可思議を抱えたままだったヴィラ・ジュリアとおなじ一昨年に再見して身も蓋もなく驚いたボロミーニのふたつ、それへの道中に立ち寄った最高の空間と思い続けてきたパンテオンと、早書きしていちおう書き切った気になれたのは日が替わって深夜になっていた。
時たま再読してみるといまだに「あああそういうことだったのか」だなんて、呆れたもんだ脳味噌は。肩入れしていたらしい自分の愚鈍に突然冷めることもある。疑いのない前提である「見る」ことにも正確な自省が必要なんだ。
映画や小説なら粗筋をばらした日にゃ弩突かれる。そこは建築、もう少しやらかそう。
高橋洋一郎
2014年
2月
06日
木
ああ、やっと一章。ようやくフィニッシュだ。すごくたいへんだった。
今回はお気楽にいきます。
4/4 ふたたび 他者と出遭う
三番目の中庭を去るのが惜しまれた。でも気付けばひとり取り残されている。あわてて事務棟の玄関から第一の中庭に戻って門に向かって走りだそうとしたそのとき、奇妙なことに気付いてしまう。
なんだ、これ?…そのままにしていたことを、写真を見ながら東京で振り返ってみる。
既出の1/4で採りあげた事務棟玄関前から見る門
2014年
2月
06日
木
今日は深刻な話。それに救いの話です。
3/4 もうひとつの別の世界
チェルト―サを巡る話しは続きます。
四月の初講。担当する一般教養の講義を四大生も受講するようになっていつもとは違うルートで帰ってみようという気まぐれをおこす。疲れていたんだ。週一の大学での講義ってそんなものです。
で、乗った電車が人を轢いた。それは僕の座っていた座席の直下に在った。向かいに座っていた20代の男性はずっと顔を覆って身じろぎひとつしない。彼は迂闊にも振り返り、見てしまったのだ。
そして、身体を毀損した寄る辺ない死者が床板を伝って靴底から浸みあがってくるような厭な感覚。
それからというもの、身に迫るものとしての死を考えるようになってしまった。
十代から四十二歳までの憧憬であった吉岡実の詩編に「時間の崩れゆく袋である生き物」の一行。
それでも不吉は日々薄れていく。それにつれ、もう一度見ないことには死んでも死にきれないと日増しに強く思うようになった場所があった。それがパヴィアのチェルト―サの三番目の中庭。
2009年に我がままを言って周りを引きずりこんでそのチャンスはやってきた。
2014年
2月
05日
水
さて、唐突にはじまった建築行脚です。同僚に急き立てられて、どうしたものかと困り果て紀行文風に仕立てての二回目。とても暗い回です。
2/4 異質なもの
蒼いタイルが貼られた天井の交差ヴォールト(天空の隠喩ですね)が印象的な礼拝堂。そこを後にして、右手にある修道僧たちが暮らした僧坊に向かう。
田園に展開する建築群を中庭が繋ぐ。礼拝堂と僧坊群をつなぐスペースが第二の中庭。アーチが連続する回廊を歩んでいく。
僕はここで驚いて鳥肌がたった。濃い。初めて行ったときの、閉館間際の慌ただしい時間のなかではそれを解釈することが全然できなくて混乱するばかりだった。
2014年
2月
05日
水
同僚のなかで古い建築に関心を寄せるのはおそらく小森くんと僕・高橋洋一郎。ここらあたりからブログを恐々はじめてみます。
1/4 他者と出遭う
はじめてイタリアに行ったときはとてもがっかりした。頭のなかで想像していたことの方がよっぽどすごかったのだ。古典主義建築の「本物」こそが手詰まりの現状をきっと打開するだろうと期待していたのに、じっさいはまさにどう見ても「『古い』建築」でしかない。片想いをしていたといっていい。
なんとも気落ちしてしまったとき、現地在住の知人に誘われてチェルト―ザ・ディ・パヴィアに行くことになったのだけれど、どうにも気が進まない。大学で使った日本建築学会の教科書が、礼拝堂のファサードを装飾過多と腐していたのを覚えていたからだ。
※古典主義 : ギリシアの流儀を手本とするスタイル。理知的。歴史上、ギリシアを含め五期ある。
対称として「ロマン主義的」。7C以来のロマネスクと12Cからのパリ起源のゴシック。情動的。
※ファサード : 建築正面の顔付としての壁面全体・立面。
2014年
1月
12日
日
模型/オブジェが面白い。
如何に日常的に模型をぼんやりと見ているのか、まずはそこに気づかされる訳だが、展示が時系列に展開されていく中を進むと、模型→オブジェのシフトが見えてくる。
実験工房初期の展示では、舞台セットのための「模型」で、完成予想図的なものではなくて、作り込みの為されていないスタディ的なもの。
模型材料は特別なものではなくて、恐らく当時の日常生活の中でありふれたもの。
間違いなくその模型が媒介となって美術や照明、音楽のメンバーとアイデアを共有し、実際の舞台具体化へと進む足掛かり的に作られたものだろうと想像させられる。
それが中期の展示に移ると、模型は「アサヒグラフ」誌に連載されていた独立した「オブジェ」として。
誌面に使われるのは1カットであるのに対して、微妙な形のズレや撮影の方法の違いで表れ方の全く違う写真が何枚も展開。
いずれも模型の材料や作り込みの程度は変わらず、未完成的。
しかし、初期のチーム内でのアイデア共有のための(手段としての)模型から、模型自体が(目的物としての)オブジェへの移行していると考えると、舞台というメディアを通さずに未完成的な抽象度の高いコンセプチャルな模型/オブジェをそのまま直截に世に問うという、より「実験」性の高いものへの志向、「実験」性への深化が強まったと言える。
前衛的な美術に限らず創作活動において、ある性質を深化をしていくことは簡単なことではない、と思う。
世に問うことを前提とした創作は、常にジャーナリズムに対するニヒルな精神が見え隠れし生まれやすい構造にあり、複数の性質を併せもつ総合性或いは多面性をもつものへ引っ張られて、故に通俗化しがちだ。
また、我々の仕事である建築においては、共有性あるいは多面性、そしてそれらを統合する総合性が極めて重要な概念であることは忘れてはいけない。
世に問うことを諦めればそれで良い。
しかし、深き可能性への思考実験のない合意形成のための建築は極めて不自由な精神しか宿らないであろう。
これに対して実験工房の「実験」性への深化は、そうした生ぬるい総合性的なものを圧しているよう思え、また、自らの活動において示唆的で、切り開くべき一つの隘路あるように思えたが、果たしてそれにのるかそるか。
http://www.setagayaartmuseum.or.jp/exhibition/images/sp00166_ad.pdf
8d 岡村
2014年
1月
07日
火
あけましておめでとうございます。
ブログを始めました。
まずはじめは若輩者の岡村が執筆を。
年末年始は極寒のオホーツクにて休日を家族と過ごしました。
見渡す限りの白い世界。
まさに音もなくしんしんと降り続ける雪。
近くには社寺はありませんので、除夜の鐘も聞こえて来ません。
テレビで渋谷の路上で行われたニューイヤーパーティーの映像などを見ても、別世界の事としか思えない、そんな静かな新年を迎えました。
帰りは、オホーツク紋別空港から新千歳を経由して羽田へ至るという行程。
新千歳〜羽田の区間では、3月末ANA退役の747の2階席が座ることが出来ました。
現役はわずか3機だそうです。
Jumbo Jetの名で長距離大型旅客機の花形だった747の勇退は、大きな時代の終わりを示しています。(サブちゃんの紅白歌合戦引退と重なって!)
それは同時に、次の世代が引き継いで何かを背負う事でもあります。
私は今年38歳になります。
そろそろ若輩者では居られません。
自らが成長することばかりではなく、脈々と受け継がれてきた先輩方の知を引き受け、背負い、伝え、引き渡していく。
そんな覚悟で、2014年も住宅からまちづくりまで、頑張って行きます。
何卒よろしくお願いします。
(8d 岡村)
2016年
2月
04日
木
8dで進めている栃木のモデルハウスの計画。
上棟しました。
薄肉H鋼と集成材を組み合わせたシステムを採用して、おおらかな構造体の大屋根を作っています。
そして、メーターモジュール。
全体的にゆったりとした計画には心地よいように思いました。
本日は現場の上棟確認と併行して建具図や展開図で内部の造作を施主サイドと設計打合せ。現場のスピードに設計が追いつかれてしまっています。
ギアを入れ替えて図面のまとめに取り掛かります!
2014年
5月
01日
木
3/3 サン・カルロ 思考する力について
玄関から入ったばかりの印象はタイトな小ささ。それは初めて来たときと変わらない。修道院の付属礼拝堂なのだ。光が乏しく唯一(楕円というより)長円のドームの凹曲面だけが薄明のうえに真白くぽっかり浮かんでいて、洞ないし腹膣の内部とも喩えたくなるヴォイドであるという印象もおなじく。
ただ、空間全体がある原理的なタイプを玄関~祭壇方向にストレッチした操作後のものであるという認識と、高さ方向の断面が明瞭に三層に分節されそれぞれがまったく異なる系として感受されるという印象の明瞭さだけは新たなものかもしれない。
2014年
5月
01日
木
2/3 サン・カルロ ふたたびローマへ
17C半ばに竣工したサン・カルロはとても小さいけれど一級の歴史的傑作とされている。
かつて30歳代半ばで初めて見たときには煩雑に感じられて幻滅したものだ。終えたばかりの仕事が和風旅館で直線と直角に整序された軽やかなモノのありかたに慣れきっていたからかもしれない。
2012年、ボロミーニでは未見のサン・ティ―ヴォと併せてふたたびここを訪れてみることにした。
土曜の10時から、しかもミサが始まる前の15分しか見ることのできないサン・ティ―ヴォは明日。
朝から十ちかいものを徒歩で廻ったのち、四月の穏やかな遅い午后に見覚えのある十字路にたどり着く。
Chiesa di San Carlo alle Quattro Fontane
alleは前置詞。交差点の四隅に四つの泉水がある。16Cの交通は馬を頼っていたからなのだろう。
2014年
4月
07日
月
1/3 ミケランジェロ
さきの【ヴィラ・ジュリア4/4】と【パヴィアのチェルト―ザ4/4】は1530年くらいからのマニエリスム期の中核的建築とそれを含む建築。建築を真正面から問題にしようとしても成熟した完璧な現行既成論理からのうまい出口を見いだせず自問自答しながらそれぞれなりに迂回して脱出する、言いかえれば「建築のための建築」。形を成すことの言外に本音を措かざるをえない「メタ建築」。たぶん多くが失敗しただろう。
1620年頃にはマニエリスムから次世代のバロックに移行していた。
(あくまで私見ではあるけれど)16Cに天才と崇められたミケランジェロの革命的コンセプトである動勢が、マニエリスムの「開発した反則技」を既成文法から解放する一群の自由な表現手法として包含した新しい造形スタイル。言葉の意味は「歪んだ真珠」。西欧各地に伝搬して新古典主義の体制のなか、スパンは19Cまで及ぶ。
バチカン美術館彫刻展示室のミケランジェロ作品
Musei Vaticani si trovano in viale Vaticano a Roma
2014年
3月
01日
土
4/4 建築、からの脱出、それに、古典主義なんてこわくない
ここで注意を喚起したい。さきに述べたトピックのことだ。
三番目の中庭。四阿(あずまや)の向こうに第二の庭。その両脇にあるL型のスリットのこと。
2014年
2月
23日
日
3)第三の中庭
第二の中庭とは(つい訝ってしまうのだけれど)動線が接続していない。連関は地の底から見上げる四阿(あずまや)の開口のみ。いったん第一の中庭に戻り気を取り直し外に出て壁に沿って裏路地風情を歩き、なんの構えもないゲートからなんの気負いもないまま横入りすることになる。
2014年
2月
23日
日
意気消沈したことがあって午后遅くから気分転換に書き始めた「なんだかなあ」の建築行脚。
思いつくままを書き連ねる紀行文のスタイルをとれば楽ちんだからシークエンシャルなチェルトーザ・ディ・パヴィアを採りあげた。その場その時に感じ思ったことを記憶を辿って文書にしていくと…あの建築が私にとって何者であったのかがまざまざと顕れてきて驚いた。
建築を字面に再現しようとして言葉に言葉を継いでいくとその間に欠けている言葉があることに気づく。ときとして重大な伏線。ときとして気づきと類推。ときとして意識もしなかった私自身の深層。見たつもりになってあるいは見ていない脳味噌が驚き続ける。
思い当たることがある。美大だから日常だったデッサンのことだ。描きだしてみると石膏像でさえ「如何にモノを見てないか」が骨身に沁みて判ってくる。そこを描ききれるかどうかでリアリティの強度が決まる。
それとおんなじことだったのだ。面白くなってずっと不可思議を抱えたままだったヴィラ・ジュリアとおなじ一昨年に再見して身も蓋もなく驚いたボロミーニのふたつ、それへの道中に立ち寄った最高の空間と思い続けてきたパンテオンと、早書きしていちおう書き切った気になれたのは日が替わって深夜になっていた。
時たま再読してみるといまだに「あああそういうことだったのか」だなんて、呆れたもんだ脳味噌は。肩入れしていたらしい自分の愚鈍に突然冷めることもある。疑いのない前提である「見る」ことにも正確な自省が必要なんだ。
映画や小説なら粗筋をばらした日にゃ弩突かれる。そこは建築、もう少しやらかそう。
高橋洋一郎
2014年
2月
06日
木
ああ、やっと一章。ようやくフィニッシュだ。すごくたいへんだった。
今回はお気楽にいきます。
4/4 ふたたび 他者と出遭う
三番目の中庭を去るのが惜しまれた。でも気付けばひとり取り残されている。あわてて事務棟の玄関から第一の中庭に戻って門に向かって走りだそうとしたそのとき、奇妙なことに気付いてしまう。
なんだ、これ?…そのままにしていたことを、写真を見ながら東京で振り返ってみる。
既出の1/4で採りあげた事務棟玄関前から見る門
2014年
2月
06日
木
今日は深刻な話。それに救いの話です。
3/4 もうひとつの別の世界
チェルト―サを巡る話しは続きます。
四月の初講。担当する一般教養の講義を四大生も受講するようになっていつもとは違うルートで帰ってみようという気まぐれをおこす。疲れていたんだ。週一の大学での講義ってそんなものです。
で、乗った電車が人を轢いた。それは僕の座っていた座席の直下に在った。向かいに座っていた20代の男性はずっと顔を覆って身じろぎひとつしない。彼は迂闊にも振り返り、見てしまったのだ。
そして、身体を毀損した寄る辺ない死者が床板を伝って靴底から浸みあがってくるような厭な感覚。
それからというもの、身に迫るものとしての死を考えるようになってしまった。
十代から四十二歳までの憧憬であった吉岡実の詩編に「時間の崩れゆく袋である生き物」の一行。
それでも不吉は日々薄れていく。それにつれ、もう一度見ないことには死んでも死にきれないと日増しに強く思うようになった場所があった。それがパヴィアのチェルト―サの三番目の中庭。
2009年に我がままを言って周りを引きずりこんでそのチャンスはやってきた。
2014年
2月
05日
水
さて、唐突にはじまった建築行脚です。同僚に急き立てられて、どうしたものかと困り果て紀行文風に仕立てての二回目。とても暗い回です。
2/4 異質なもの
蒼いタイルが貼られた天井の交差ヴォールト(天空の隠喩ですね)が印象的な礼拝堂。そこを後にして、右手にある修道僧たちが暮らした僧坊に向かう。
田園に展開する建築群を中庭が繋ぐ。礼拝堂と僧坊群をつなぐスペースが第二の中庭。アーチが連続する回廊を歩んでいく。
僕はここで驚いて鳥肌がたった。濃い。初めて行ったときの、閉館間際の慌ただしい時間のなかではそれを解釈することが全然できなくて混乱するばかりだった。
2014年
2月
05日
水
同僚のなかで古い建築に関心を寄せるのはおそらく小森くんと僕・高橋洋一郎。ここらあたりからブログを恐々はじめてみます。
1/4 他者と出遭う
はじめてイタリアに行ったときはとてもがっかりした。頭のなかで想像していたことの方がよっぽどすごかったのだ。古典主義建築の「本物」こそが手詰まりの現状をきっと打開するだろうと期待していたのに、じっさいはまさにどう見ても「『古い』建築」でしかない。片想いをしていたといっていい。
なんとも気落ちしてしまったとき、現地在住の知人に誘われてチェルト―ザ・ディ・パヴィアに行くことになったのだけれど、どうにも気が進まない。大学で使った日本建築学会の教科書が、礼拝堂のファサードを装飾過多と腐していたのを覚えていたからだ。
※古典主義 : ギリシアの流儀を手本とするスタイル。理知的。歴史上、ギリシアを含め五期ある。
対称として「ロマン主義的」。7C以来のロマネスクと12Cからのパリ起源のゴシック。情動的。
※ファサード : 建築正面の顔付としての壁面全体・立面。
2014年
1月
12日
日
模型/オブジェが面白い。
如何に日常的に模型をぼんやりと見ているのか、まずはそこに気づかされる訳だが、展示が時系列に展開されていく中を進むと、模型→オブジェのシフトが見えてくる。
実験工房初期の展示では、舞台セットのための「模型」で、完成予想図的なものではなくて、作り込みの為されていないスタディ的なもの。
模型材料は特別なものではなくて、恐らく当時の日常生活の中でありふれたもの。
間違いなくその模型が媒介となって美術や照明、音楽のメンバーとアイデアを共有し、実際の舞台具体化へと進む足掛かり的に作られたものだろうと想像させられる。
それが中期の展示に移ると、模型は「アサヒグラフ」誌に連載されていた独立した「オブジェ」として。
誌面に使われるのは1カットであるのに対して、微妙な形のズレや撮影の方法の違いで表れ方の全く違う写真が何枚も展開。
いずれも模型の材料や作り込みの程度は変わらず、未完成的。
しかし、初期のチーム内でのアイデア共有のための(手段としての)模型から、模型自体が(目的物としての)オブジェへの移行していると考えると、舞台というメディアを通さずに未完成的な抽象度の高いコンセプチャルな模型/オブジェをそのまま直截に世に問うという、より「実験」性の高いものへの志向、「実験」性への深化が強まったと言える。
前衛的な美術に限らず創作活動において、ある性質を深化をしていくことは簡単なことではない、と思う。
世に問うことを前提とした創作は、常にジャーナリズムに対するニヒルな精神が見え隠れし生まれやすい構造にあり、複数の性質を併せもつ総合性或いは多面性をもつものへ引っ張られて、故に通俗化しがちだ。
また、我々の仕事である建築においては、共有性あるいは多面性、そしてそれらを統合する総合性が極めて重要な概念であることは忘れてはいけない。
世に問うことを諦めればそれで良い。
しかし、深き可能性への思考実験のない合意形成のための建築は極めて不自由な精神しか宿らないであろう。
これに対して実験工房の「実験」性への深化は、そうした生ぬるい総合性的なものを圧しているよう思え、また、自らの活動において示唆的で、切り開くべき一つの隘路あるように思えたが、果たしてそれにのるかそるか。
http://www.setagayaartmuseum.or.jp/exhibition/images/sp00166_ad.pdf
8d 岡村
2014年
1月
07日
火
あけましておめでとうございます。
ブログを始めました。
まずはじめは若輩者の岡村が執筆を。
年末年始は極寒のオホーツクにて休日を家族と過ごしました。
見渡す限りの白い世界。
まさに音もなくしんしんと降り続ける雪。
近くには社寺はありませんので、除夜の鐘も聞こえて来ません。
テレビで渋谷の路上で行われたニューイヤーパーティーの映像などを見ても、別世界の事としか思えない、そんな静かな新年を迎えました。
帰りは、オホーツク紋別空港から新千歳を経由して羽田へ至るという行程。
新千歳〜羽田の区間では、3月末ANA退役の747の2階席が座ることが出来ました。
現役はわずか3機だそうです。
Jumbo Jetの名で長距離大型旅客機の花形だった747の勇退は、大きな時代の終わりを示しています。(サブちゃんの紅白歌合戦引退と重なって!)
それは同時に、次の世代が引き継いで何かを背負う事でもあります。
私は今年38歳になります。
そろそろ若輩者では居られません。
自らが成長することばかりではなく、脈々と受け継がれてきた先輩方の知を引き受け、背負い、伝え、引き渡していく。
そんな覚悟で、2014年も住宅からまちづくりまで、頑張って行きます。
何卒よろしくお願いします。
(8d 岡村)