バロック、またはボロミーニ 2/3

2/3 サン・カルロ ふたたびローマへ 

 17C半ばに竣工したサン・カルロはとても小さいけれど一級の歴史的傑作とされている。

かつて30歳代半ばで初めて見たときには煩雑に感じられて幻滅したものだ。終えたばかりの仕事が和風旅館で直線と直角に整序された軽やかなモノのありかたに慣れきっていたからかもしれない。

2012年、ボロミーニでは未見のサン・ティ―ヴォと併せてふたたびここを訪れてみることにした。

土曜の10時から、しかもミサが始まる前の15分しか見ることのできないサン・ティ―ヴォは明日。

朝から十ちかいものを徒歩で廻ったのち、四月の穏やかな遅い午后に見覚えのある十字路にたどり着く。

Chiesa di San Carlo alle Quattro Fontane  

alleは前置詞。交差点の四隅に四つの泉水がある。16Cの交通は馬を頼っていたからなのだろう。 

 バロックはどう見たらいいのか。ちょうど十年前、ミラノ中心部の(おそらく大戦の爆撃で)ファサードが瓦解したままの長軸入り楕円平面の教会で、出勤前に祈りをささげる人たちを慮って壁際に佇んでいて気付いた。壁にもたれて見上げればいいのだ。サン・カルロでもそれをやってみる。

 水平方向に建築を動かそうとしている。かの彫刻やラウレンツィアーナ図書館の階段でのミケランジェロと同じやり方で、取り囲む気積をもデザインのレンジに組み込んで褶曲するムーヴメントへと移行させようとしている。これ、200年前の古典主義のはじまり/ルネサンス/静的で端正なブルネルスキと較べるとまさに隔世の感がある。

泉水の上部ではサン・ピエトロ側壁でミケランジェロがやった「(横にズレてスライドしていくような)輻輳」柱も見受けられるけれど、高密な街中にあって分節もままならない鐘楼を伸び上がるように見せるために「鉛直線を増やす」ことをしているだけなのかもしれない。

もし、文化的に縛られたシンメトリー(左右対称)の教条さえ踏み越えられたらさぞ凄まじかっただろう。

(ミケーレ・デ・ルッキのアトリエで働いていた友人がエスキースについて評釈されたそうだ。

「なんでシンメトリーじゃないの?」

彼は経堂の手打ち蕎麦屋で彼我の差異についての驚きを語った。久しぶりに出張で帰ってきた彼の言葉を新鮮な驚きを以ってぼくは聴いた。)

 ただ、外部だけじゃ詰まらない。驚くものではあの十字路の小さな教会はない。路の先にあるベルニーニのサンタンドレア教会のポルティコ~基壇・階段のほうが発見的で、と、つい近くにあるから思ってしまう。これの恐ろしいところは、ファサードのそのアナウンスを受け取って入った内部、それを前提として未知の領域へとジャンプする、まさに、その内部空間なのだ。

 

 

 礼拝堂右脇にある玄関。中に入ると一拍措いてロッジア(開放廊)付きの中央に井戸のある優れてユニークな光庭がある。トップヘビーな末端肥大症で下部脆弱な際どいプロポーション。ばかでかいコーニス(トップの水切り)と持ち出し刳り型による上方と凹状に湾曲しながら横方向へも拡大していくような動勢。類例はローマを歩いていて二つほど見かけた…歪曲のシニシズムもあって言いようもなくとても好きだ。

 

高橋洋一郎