意気消沈したことがあって午后遅くから気分転換に書き始めた「なんだかなあ」の建築行脚。
思いつくままを書き連ねる紀行文のスタイルをとれば楽ちんだからシークエンシャルなチェルトーザ・ディ・パヴィアを採りあげた。その場その時に感じ思ったことを記憶を辿って文書にしていくと…あの建築が私にとって何者であったのかがまざまざと顕れてきて驚いた。
建築を字面に再現しようとして言葉に言葉を継いでいくとその間に欠けている言葉があることに気づく。ときとして重大な伏線。ときとして気づきと類推。ときとして意識もしなかった私自身の深層。見たつもりになってあるいは見ていない脳味噌が驚き続ける。
思い当たることがある。美大だから日常だったデッサンのことだ。描きだしてみると石膏像でさえ「如何にモノを見てないか」が骨身に沁みて判ってくる。そこを描ききれるかどうかでリアリティの強度が決まる。
それとおんなじことだったのだ。面白くなってずっと不可思議を抱えたままだったヴィラ・ジュリアとおなじ一昨年に再見して身も蓋もなく驚いたボロミーニのふたつ、それへの道中に立ち寄った最高の空間と思い続けてきたパンテオンと、早書きしていちおう書き切った気になれたのは日が替わって深夜になっていた。
時たま再読してみるといまだに「あああそういうことだったのか」だなんて、呆れたもんだ脳味噌は。肩入れしていたらしい自分の愚鈍に突然冷めることもある。疑いのない前提である「見る」ことにも正確な自省が必要なんだ。
映画や小説なら粗筋をばらした日にゃ弩突かれる。そこは建築、もう少しやらかそう。
高橋洋一郎
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