さて、唐突にはじまった建築行脚です。同僚に急き立てられて、どうしたものかと困り果て紀行文風に仕立てての二回目。とても暗い回です。
2/4 異質なもの
蒼いタイルが貼られた天井の交差ヴォールト(天空の隠喩ですね)が印象的な礼拝堂。そこを後にして、右手にある修道僧たちが暮らした僧坊に向かう。
田園に展開する建築群を中庭が繋ぐ。礼拝堂と僧坊群をつなぐスペースが第二の中庭。アーチが連続する回廊を歩んでいく。
僕はここで驚いて鳥肌がたった。濃い。初めて行ったときの、閉館間際の慌ただしい時間のなかではそれを解釈することが全然できなくて混乱するばかりだった。
見上げると煉瓦積の赤黒く重苦しげな建築が垂直に高くそびえたつ。これは化粧でもフェイクでもない。目地も面までびっちり詰まった組積造の構造体そのものだ。固く重く密な塊としての部厚い壁体と、そこに穿たれた奇妙な開口。すべてがへヴィーで息が詰まる。押し潰されそうになる。
ついで、出てきたばかりの礼拝堂を振り返れば半円シリンダーに円形の穴。
『巨大な一つ目小僧』 まるで化けものだ。
それの真正面で対立するような尖塔の饒舌な列。その向こう側に、まるで押し寄せ殺到するかのような巨大で煩雑な礼拝堂。得体のしれないディテイル。多すぎるものが充満して飽和しきっている。
これは僕のなかにまったくないもの。静かな騒乱。グロテスクに動きださんばかりのソリッドな建築。
これがイタリアを基軸のひとつとする西欧というものなのか。僕たちが綺麗と思うものが一切無い。
このさして広いわけでもない囲われて閉じた中庭で、言葉もなく圧倒されてしまった。
26年前のナイーヴな若かった動揺を振りかえる今は、それをすこしは冷静に分析することができる。
円形開口が穿たれた半円シリンダー(アプス)の内部には聖像が佇む。丸窓はそれを背後から荘厳に浮かび上がらせようとする演出の明かり取りである薔薇窓なのだ。
林立する尖塔はゴシック特有の構造部位であるピナクル。100年の時間をかけて建設されているから例のファサードはルネサンスだけれど、それに先んじた礼拝堂本体はミラノ大会堂を典型とするロンバルディア流儀のゴシックだ。
※ゴシック;中世以来北方で醸成されたスタイル。 ロンバルディア/北イタリアにはあるもののイタリア
では結局受け容れられなかったとJ,S,アッカーマン『ミケランジェロの建築』。
押し寄せるように感じられた礼拝堂の秘密もいまは説明できると思う。
尖塔群のラインを境として、こちら側の回廊アーチと向こう側の礼拝堂上層の飾りアーチは相似形。
そのスパン比は2:1。巨大ではあるのだけれど、じつは礼拝堂は1/2縮小されている、ということだ。
軒のラインでいったん切られ、塔はその背後の向こう側にあるかのように感じられる。
スパンがさらに縮小されていることと段状に後退していくこと、それに堂のアーチ列「背後」にある壁の色と似た色相・明度であることが由縁だろう。
塔の伸びあがるような様子と、堂のぎっしりと殺到するような水平方向の動き。対をなしている。
それら、ちぐはぐで凝集された印象が隣接しひたっと物理的に密着する。押し寄せる感覚とともに、まるで「ガリバー旅行記」に迷いこんだような現場での奇妙な感覚の由縁だろう。いったい、巨人に見下ろされているのか、あるいは小人たちの精密なミニチュアの仔細を覗き込んでいるのか。
不可思議の前で、対極の心情を行ったり来たりする。
僕ら日本人ならつい気を遣ってしまう細やかでお節介な調整もなく、モノの本質が剝き出しになり衝突を繰りかえす場所。ダイナミズムなんて言葉はこういうことを指すのだ。
「濃い」
そうとでも言うしかない。それは経験したことのなかった空間であり状況だった。
異国で初めて認識した「異質ということ」をあらためて振りかえって考えてみる現在だ。
(清らかな雪が暴虐のすべてを隠してしまってる…リアリティを伝えられないのがとても残念です)
高橋洋一郎
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