同僚のなかで古い建築に関心を寄せるのはおそらく小森くんと僕・高橋洋一郎。ここらあたりからブログを恐々はじめてみます。
1/4 他者と出遭う
はじめてイタリアに行ったときはとてもがっかりした。頭のなかで想像していたことの方がよっぽどすごかったのだ。古典主義建築の「本物」こそが手詰まりの現状をきっと打開するだろうと期待していたのに、じっさいはまさにどう見ても「『古い』建築」でしかない。片想いをしていたといっていい。
なんとも気落ちしてしまったとき、現地在住の知人に誘われてチェルト―ザ・ディ・パヴィアに行くことになったのだけれど、どうにも気が進まない。大学で使った日本建築学会の教科書が、礼拝堂のファサードを装飾過多と腐していたのを覚えていたからだ。
※古典主義 : ギリシアの流儀を手本とするスタイル。理知的。歴史上、ギリシアを含め五期ある。
対称として「ロマン主義的」。7C以来のロマネスクと12Cからのパリ起源のゴシック。情動的。
※ファサード : 建築正面の顔付としての壁面全体・立面。
ロンバルデイア平原を車でミラノから一時間南下して田園をよぎる参道の長い長い並木を抜けると、西欧で最大規模のひとつに数えられる修道院の前庭がひらける。
壁面ラインの妙な不揃いを見て、それが膨大な時間と事情を貫いて営々と構築されてきたものであることを察したけれど、ショーン・コネリーの主演で映画にもなったウンベルト・エーコの小説『薔薇の名前』の舞台となった奇怪な迷宮のようなそれとは異なり、晴朗で実直な印象を受けた。
華美な天井ヴォールトをもつ門をくぐると第一の中庭。15C末に完成した例のファサードが正面に現れる。しかし、さまざまな色の大理石による彫刻と緻密な象嵌細工に彩られた立面を見ていて思いはじめることがある。これを単純に「やり過ぎ」と言ってしまっていいのだろうか、と。
※ヴォールト : アーチを一方向に連続的につくって形成される蒲鉾状の天井・屋根。
教義と会派の営みを、これらは再現し記録しようとしている。ファサードは一種のプレゼンテイション・ボードであり、同時に、神への捧げものでもあることにあらためて気づく。
なるほど、建築は第一義に社会において機能するもの。目的を欠いては意味がないんだもの。
東京で読み耽った建築史の言説を、なんだか公平な想像力を欠いた薄っぺらなものと感じはじめる。
それにファサード足元の円形を並べた水平ラインがアイデアとしてとても面白いのだ。
それは一種のコロrollerを連想させて建築が動くかのような思いつきに誘い、認識において建築の大地との結びつきを緩くする。
「聖なるもの」「尊いもの」は現実の地平と切り離さなければならない。
たとえば数段の基壇によって。あるいはマッシヴで無窓の第一層、さらには逆に高床によって。東大寺の大仏殿然り。中国の紫禁城然り。インドのタージマ・ハル然り。原理として洋の東西を問わない。
ここは中庭。すでにスケールも親密な内部だから大袈裟な構えは要らないかもしれない。「高みの聖」の分断を、さりげなく類例のない閃きで上手くやったな、と感心してしまう。
次いで右側の事務棟は、16から17Cのよく練られて成熟した立面。コストを懸けられなかったのであろう他の立面も、16Cマニエリスム期の手法であるトロンプルイユ(騙し絵)で、事務棟と共通する柱型が、それに窓縁にはルネサンス式のエディクラ(飾り窓枠)が立体的に描かれる。
※マニエリスム : それぞれの期の古典主義が成熟した直後に必然として発生する態度。
完璧な体系を回避すべく批判として歪曲的に、もしくは逃亡として幻想的となって顕 れる。
※ルネサンス : ギリシア、ローマに継いで15Cのフィレンツェに現れる第三期の古典主義。
事情と経緯により異なるものを、調和させ統合しようとする細心の配慮が行き届いて、どこも悪くない。
ほんとはとても難しい。大胆といってもいい。気づいてみればとても面白く、肌理細やかで美しい。
こうやって僕は、日本人が考える西洋の定番から逃れはじめた。
高橋洋一郎
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